長野県・伊那市高遠町・高遠城

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【 概 要 】−高遠城(長野県伊那市)の築城年は不詳ですが中世、周辺領主だった高遠氏の居城でした。天文14年(1545)に武田信玄によって攻略され、その後伊那地方の軍略的拠点となり天文16年(1547)に山本勘助(武田家軍師)と秋山信友(武田家重臣)が高遠城の大改修を行い現在見られる城郭の原形が築かれます。永禄5年(1562)に武田勝頼(武田信玄4男)が高遠城主となり、その後も信玄の実弟武田信廉や異母弟の仁科盛信(武田信玄5男)など血族が勤めるなど武田氏にとって高遠城は重要視していたことがわかります。天正3年(1575)長篠の戦で大敗すると、武田家から家臣の離反が相次ぎ天正10年(1582)、5万の兵を率いる織田信忠(織田信長長男)軍が侵攻すると盛信は僅か3千の兵で籠城し激戦むなしく高遠城は落城し盛信も討死しています。武田家が滅ぶと織田家家臣毛利長秀が城主となりますが、同年、本能寺の変により信長が自刃、長秀は高遠城を破棄し自領に引き上げ、武田家を裏切り徳川に与した木曾氏が高遠城を占拠します。その後、徳川家の侵攻により保科正俊が城主になり、天正18年(1590)に家康が関東に移封になると豊臣家家臣となった毛利秀頼(長秀から改名)が飯田領主となり当地を支配しました。江戸時代に入ると高遠藩が立藩し高遠城はその藩庁が置かれ、軍事、政治、行政、経済の中心となります。当初は京極氏・保科氏・鳥居氏が短期間で藩主が代わり、元禄4年(1691)に内藤清枚が3万3千石で入封すると内藤家が明治維新まで歴代藩主を歴任、改めて高遠城を改修し三層の辰己櫓や櫓門など近世城郭として体裁を整えています。明治に入り、廃藩置県が執行されると高遠藩は廃藩、高遠城も廃城となりましたが、現在でも郭の形状や大規模な空掘、高い土塁、一部の石垣などの遺構が残り三の丸跡には高遠藩の藩校である進徳館の1部の建物が残されています。高遠城は昭和47年に国指定史跡に指定され、平成18年に日本名城100選に選定されています。

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