【 概 要 】−山寺家は松代藩主真田家に仕えた中級武士で160石程の石高が与えられ、幕末には鎌原桐山(江戸時代後期の儒者、真田幸弘・幸専・幸貫に仕えた、首席家老)と佐久間象山(江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家)とともに松代の三山と称される山寺常山(久道、信龍、源太夫)を輩出しています。常山は青年時に江戸で学業を積み多くの識者との親交を深め8代藩主真田幸貫からも篤く信頼されました。藩政では藩主の側近として政務を補佐し、寺社奉行、郡奉行などの要職を歴任、藩校では兵学を中心に教鞭をとり人材育成にも尽力しました。明治維新後は新政府からの要請を断り長野で私塾を開き門人の教育に力を入れました。明治11年(1878)7月3日死去、享年72歳。現在の表門は江戸時代末期から明治時代初頭に建てられたと推定される建物で、寄棟、桟瓦葺き、長屋門形式、桁行約22mの長さは松代城下の中で最大級とされ、敷地内にある書院は大正時代末期から昭和初期に建てられた建物で当時の近代和風の様式を伝える貴重なものとされます。庭園は神田川から泉水路により引き入れた池泉を中心に背後の象山を借景にした名園で江戸時代の中級武家屋敷庭園の遺構として貴重な事から「旧山寺常山氏庭園」として平成20年(2008)に国登録記念物に登録されています。
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