【 概 要 】−倉科片雄報恩院西敬寺は慶長7年(1255)、親鸞の弟子となった釈善巧が川中島倉科(現在の千曲市倉科)に一宇を設けたのが始まりとされます。西敬寺は川中島の合戦の兵火により焼失し永禄年間(1560)に中野牛出、その後、飯山町深沢を経て寛文12年(1672)に現在地に境内を移しています。現在の西敬寺の本堂は江戸時代中期に建立されたもので寄棟、金属板葺き、同時期に建てられたと言われる茅葺の山門や鐘楼など当時の雰囲気を残しています。西敬寺の所有している木造伝聖徳太子立像は平安時代末期に製作された推定されている古仏で、檜材、一木造、像高90.5cm、素地、伝承によると親鸞が善光寺を訪れた際、岩倉刑部親経が弟子となり釈善巧の名号と聖徳太子像が授けられたと伝えられています。又、武田信玄が川中島の戦いで苦戦していると一条の光が信玄を包み込み助けられたので、不思議と思い、光をたどってみると西敬寺の太子堂に安置されている聖徳太子像が神々しく光っていました。信玄が眼を凝らしてみて見ると敵から負わされたと思った所に傷が付いていた事から身代わりになって助けられたと悟り篤く帰依するようになったと伝えられています。木造伝聖徳太子立像は昭和54年(1979)に長野県の県宝に指定されています。
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