【 概 要 】−小菅神社の創建は不詳ですが役小角が開いた山岳信仰の霊地として信仰の対象となり、往時は戸隠神社、飯綱神社と共に北信濃三大修験場と称されました。古くは征夷大将軍坂上田村麻呂や勅使鷲尾中将が東夷東征の戦勝祈願として当社を訪れ、平城天皇、嵯峨天皇の勅願所にもなりました。古くから神仏習合し小菅権現(祭神:素戔嗚尊・本地仏:馬頭観音)を主祭神として熊野(早玉神社・祭神:伊弉冉命・本地仏:阿弥陀如来)・金峯山(金峯神社・祭神:広国押武金日命・本地仏:釈迦如来)・白山(白山比盗_社。祭神:伊弉諾命・本地仏:十一面観音)・立山(雄山神社・祭神:大国魂命・本地仏:無量寿仏)・山王(日吉大社・祭神:大己貴命・本地仏:薬師如来)・走湯(伊豆山神社・祭神:瓊々杵尊・本地仏:観世音菩薩)・戸隠(戸隠神社・祭神:手力男命・本地仏:正観音)の7神祀った事から八所権現と称し、元隆寺大聖院が別当寺院として祭祀を司りました。中世に入ると熊野信仰の影響を強く受け修験道場として発展、室町時代に最盛期を向え、元隆寺大聖院は37坊を擁する大寺院となり多くの堂宇が建立されただけでなく歴代領主からも多数の寺宝の寄進があり大きな影響力を持ちました。戦国時代に入ると上杉謙信から帰依されましたが、小菅神社の鎮座地は上杉領と武田領の境に近く永禄10年(1567)の川中島の戦いの兵火など度々戦禍を受ける事となり次第に衰微します。それでも上杉景勝が当地を奪い返すと庇護を与えますが往時には至らず、さらに慶長3年(1598)に景勝が会津に移封になると急速に衰退しました。それでも、残った宗徒達が元隆寺大聖院が再興し歴代飯山城の城主も庇護した事で境内も次第に整備されました。明治時代の神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により大聖院が廃寺となり奥之院が小菅神社奥社、八所大権現里宮が小菅神社里宮となり、仏像、仏具などが小菅山菩提院に遷されています。
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