長野県・長野市・松代城

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【 概 要 】−松代城(長野県長野市)の築城年代は不詳ですが、文献としての初見が永禄3年(1560)なので少なくともそれ以前に築城されていたと思われます。戦国時代になると武田方の持城となり川中島に隣接して事から上杉方への軍事拠点として重要視されました。伝承によると武田家の軍師として知られた山本勘助が縄張り等で関わったとも云われ松代城の重要性が伺えます。天正10年(1582)、織田信長の信濃、甲斐侵攻により武田家が滅ぶと、織田家家臣森長可の持城になりますが同年、本能寺の変で信長が倒れると上杉景勝の家臣須田満親が城代となりました。慶長3年(1598)、景勝が会津に移封になると豊臣秀吉の家臣田丸直昌が松代城に入り石垣などが整備され、慶長6年(1600)に森忠政が入封すると城域の拡張が行われました。元和8年(1622)に真田信之が入封すると海津城から松代城に名称を改称、以来、松代藩の藩庁と歴代真田家(10万石:信之・信政・幸道・信弘・信安・幸弘・幸専・幸貫・幸教・幸民)の居城として明治維新を迎えています。松代城は千曲川を天然の外堀に見立てた堅固な平城で本丸を中心に、二の丸、三の丸、花の丸といった主要な郭があり本丸には3棟の2重櫓が設けられました。主要な出入口は三日月堀、丸馬出、枡形の櫓門などで厳重に管理され本丸部には全面石垣を積み上げています(本丸以外は土塁を使用)。明治時代に廃藩置県、版籍奉還が行われ松代藩が廃藩になると松代城も廃城となりました。明治6年の火事により花の丸御殿を焼失しその後も破却や民間への払い下げ、市街化などにより全ての建物は城内から失われました。明治37年(1904)、藩主後裔の真田幸正が本丸跡を買い取り遊園地として解放した為、宅地化が免れ本丸を中心に石垣や土塁、水堀などの遺構が良好に残り昭和56年に国指定史跡に指定されています。その後、太鼓門や北不明門などが復元され平成18年に日本名城100選に選定されています。

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