【 概 要 】−横田家は富岡製糸場(群馬県富岡市)創業当時の工女として働き、工場内での様子を記した「富岡日記」の著書和田英を輩出した家です。富岡製糸場は明治時代初期に日本政府が外国への輸出品として絹を重要視し、その品質向上と大量生産を図る為に計画された日本初の本格的な器械製糸工場で、当時の最先端技術を擁していたフランスから技術者を招聘し、器械製糸工場としては世界最大級の規模を誇っていました。明治維新後に困窮した武家出身の子女達も数多く富岡製糸場で働き、労働条件としては当時の日本では最先端だったものの過酷であった事は間違いなく特に民間に移譲されてからは環境が悪化し多くの工女が過労や病気で亡くなり、富岡製糸場の近隣にある寺院には墓碑や供養塔が数多く建立されています。そういう意味でも和田英著の「富岡日記」は富岡製糸場の創成期の工女達の生活がよく表現されており資料的な価値も評価されています。和田英が実際富岡製糸場で働いていたのは明治6年(1873)4月から明治7年(1874)7月までで、その後長野県西條村に開設された民営の器械製糸場(六工社)の技術教師となり、さらに県営長野県製糸場の製糸教授にも就任しています。横田家は江戸時代までは松代城に務める中級武士の家系でしたが、明治時代以降は和田英をはじめ、最高裁判所長官や鉄道大臣などの人材を輩出し名家として知られる存在となりました。横田家住宅は建築的な価値はもちろん、彼女等の生家としての歴史的な価値もあります。
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