【 概 要 】−須坂陣屋は江戸時代に須坂藩の藩庁が設けれた陣屋です。藩祖となった堀直重は堀直政の4男で慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、堀一族と共に東軍として行動した功により下総矢作2千石、信濃須坂に6千石が与えられました。慶長19年(1614)の大坂の陣でも徳川方として参陣し信濃高井郡内4千石が加増され合計1万2千石をもって諸侯に列し須坂藩を立藩しています。当初は小山村の普願寺を仮の陣屋として政務を行っていましたが元和3年(1617)に直重が没すると嫡男である堀直升が跡を継ぎ、当地で陣屋の造営が行われました。堀直升が跡を継いだ際、弟である堀直昭に千石、堀直久と堀直房に5百石づつ、合わせて2千石を分知した為、須坂藩は1万石余となり、その後も堀家が藩主を歴任して明治維新を迎えています。特に13代藩主である堀直虎が名君とされ藩政改革を断行すると、それに反対した家老等41人を排除し須坂藩の軍政を洋式化しています。幕政においても大番頭、市中見廻役、呉服橋門番、若年寄兼外国総奉行などの要職を歴任し、大政奉還を徳川慶喜に進言するなど大きな役割を持ちました。しかし、原因不明の自害を遂げ、弟の直明が14代藩主に就任、直明は戊辰戦争の際に新政府軍に積極的に協力し賞典禄として5千石を下賜されています。明治時代に入ると須坂藩は廃藩となり、それに伴い須坂陣屋も廃されています。現在、須坂陣屋の跡地は須坂小学校と奥田神社の境内、市街地となっています。
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