| 【 概 要 】−千曲川から見て西側の方角(長野市方向)にある長野善光寺を川西善光寺、東側の方角(中野市方向)にある南照寺を川東善光寺と称していたそうです。詳細は不詳ですが戦国時代、国人領主として当地を支配した高梨氏が長野善光寺の本尊を当地に遷し如来堂を造営したのが始まりとされます。その後、戻されたものの、長野領の領主だった村上氏が武田信玄に敗れた混乱を利用し再び当地に本尊を遷したそうです。高梨氏が武田家に敗れ、上杉家を頼り越後に逃亡した際、善光寺に戻されたとも、越後に遷されたとも云われています。江戸時代に入り再興され幕府(天領代官)の庇護もあり明暦元年(1655)には本堂が再建されています。伝承によると本尊の金銅製阿弥陀三尊像は奈良時代以前(形状から南北朝時代に製作されたものと推定されています。)に印度から中国、百済そして日本に伝わったとされる秘仏で中尊の阿弥陀如来像と脇侍の観音菩薩像、勢至菩薩像の三躯からなり、霊験が著しく高く、江戸時代には江戸や名古屋など出開帳し大盛況したそうです。文化11年には、江戸時代を代表する俳諧師の一人小林一茶も善光寺仏開帳に立会い日記にそのことを記しています。北信濃十三仏霊場十三番札所(札所本尊:虚空蔵菩薩・丑、寅年生守本尊、三十三回忌の守り佛)。
|