【 概 要 】−雲彩寺の創建は不詳ですが当初は薬師垣外(地名)に境内を構え明治7年(1874)に現在地に移りました。雲彩寺の山門は案内板によると「 旧飯田城の城門のひとつといわれている。豪直なデザインから室町様式を伝える建築物である。この門は飯田城の桜丸にあった脇門といわれている。明治4年、飯田藩が廃藩され飯田城が明け渡されるとき当時上郷村黒田の住人斉藤重胤氏が城門2基を買い取ったうちの1基で雲彩寺に寄進されたものである。門の向って左側に潜門の扉が残り、右側には袖塀のついた跡がある。建築年代は、18世紀前半と見られている。 」とあります。飯田城は飯田藩の本城で藩庁や藩主居館が設けられていましたが、明治時代に入り廃藩置県が発令されると飯田藩も廃藩となり、それに伴い飯田城も廃城となりました。多くの建物が破却、払い下げとなる中、雲彩寺山門は数少ない飯田城の遺構として貴重な存在です。又、雲彩寺境内は下伊那最大級の前方後円墳(横穴式石室)で江戸時代にはすでに発掘調査が行われ、出土品は「雲彩寺所蔵古物之図」にまとめられています。しかし、多くの出土品は紛失し現在は馬鈴2個と金環1個のみとなりましたが昭和40年に長野県指定史跡に指定されています。中部四十九薬師霊場第18番札所(御詠歌:ゆたかなる 秋のみのりも 千町田の 穂に出てなぴく 色にしられて)。飯田領内十二薬師霊場第11番札所。本尊の薬師瑠瑞光如来座像は行基菩薩(奈良時代の高僧)が自ら彫り込んだと伝わるもので、像高41cm、内部には8.3cmの胎内仏が安置されています。脇侍である日光菩薩立像と月光菩薩立像は貞享3年(1686)に彫刻されたもので像高35cm、十二神将は天明4年(1784)に地元出身の仏師佑正によって彫り込まれています。
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