長野県・飯田市・開善寺

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【 概 要 】−開善寺の創建は建武2年(1335)、小笠原貞宗が清拙正澄を招き開山し貞宗の戒名「開善寺殿泰山正宗大居士」に因み寺号を「開善寺」としました。以来、小笠原家の歴代菩提寺として庇護され、最盛期には寺領2千石を領し境内に多くの堂宇が建ち並び、禅宗清拙派の根本道場として寺運が隆盛しました。室町時代に2度の火災があり多くの堂宇が焼失し境内が荒廃しましたが天文18年(1549)、信濃を制した武田信玄の命により松尾城の城主小笠原信貴が再興しています。天正10年(1582)、織田、徳川連合軍による甲斐、信濃侵攻により焼失、庇護者を失い衰微しましたが文禄3年(1594)、飯田城の城主となった京極高知が再興し、慶長6年(1601)に飯田藩主小笠原秀政が寺領の寄進を行っています。開善寺の開基である伊那小笠原氏は武田家、織田家、徳川家と主家を変え天正18年(1590)に家康が関東に入部すると随行し武蔵国児玉郡本庄に1万石を与えられます。当時の当主小笠原信嶺は領内に開善寺を創建すると以後、小笠原家が移封先に随行し元禄4年(1691)に小笠原貞信が勝山藩2万2千石の藩主になると勝山でも開善寺を創建し菩提寺となっています(小笠原家歴代の墓碑は勝山市指定史跡)。現在の山門(瑠璃閣)は室町時代初期に建立されたもので切妻、銅板葺、三間三戸、単層門(建立当時は楼門形式)、当時の山門建築の遺構として大変貴重なことから昭和27年(1952)に国指定重要文化財に指定されています。寺宝が多く 絹本著色八相涅槃図(鎌倉時代、唐の呉道子筆、縦162.5cm、横116.0cm)が平成5年(1993)、画文帯四仏四獣鏡(長野県指定史跡に指定されている御猿堂古墳から出土した副葬品、銅製、径23.7cm、厚0.8cm)が昭和28年(1953)に国指定重要文化財に指定され、木造大鑑禅師坐像が平成22年(2010)に長野県県宝、鐘楼(寛永8年:1631年、入母屋、銅板葺、袴腰付、上層部吹き放し高欄付)は昭和23年(1948)に国重要美術品に認定されています。
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開善寺(飯田市):周辺の見所

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