長野県・別所温泉・安楽寺(小幡信貞)

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安楽寺(長野県・別所温泉)
【 安楽寺:概要 】 安楽寺は小幡信貞の縁のある寺院です。小幡氏の出生は判りませんが、上野国一宮貫前神社と関係が深い一族とされ、貫前神社の主席社家である物部姓磯部氏の分家が小幡姓を名乗った事から、その後裔の一族と推測されています。その後、小幡氏は上野国の国人領主として勢力を広げ、室町時代には関東管領の山内上杉氏の被官として活躍するようになり戦国時代には上杉憲政を関東管領に擁立するなど重責を担いましたが、武田信玄の上野国侵攻により上杉家が衰退すると上杉家を見限り武田家に転じました。天文22年(1553)、当時の当主小幡憲重は子供を連れて武田信玄が入っていた塩田城(長野県上田市)に参陣、子供は信玄の「信」の字を賜り信貞と改名しました。小幡信貞も父親と同様に武田信玄に仕え主要な合戦に従軍して大功を挙げ、準譜代家臣と同様の扱いを受けたそうです。長篠の戦いで憲重が討死すると信貞が家督を継ぎ、不穏な動きをする木曾義昌に代わり信貞を木曽谷に遷す事が提案される程の信頼がありました。しかし、天正10年(1582)に織田・徳川連合軍により甲斐・信濃侵攻により主家である武田勝頼が自刃に追い込まれ武田家が滅亡すると、家臣の進言などあり織田家に降伏し以後、織田家家臣である滝川一益の与力となりました。しかし、同年に発生した本能寺の変により織田信長が自刃、その間隙を突いて北条氏直が上野国に侵攻し後ろ盾を失った滝川一益は神流川の戦いで敗北し関東から撤退します。結局、信貞は北条氏に従い天正13年(1585)には家督を養嗣子である小幡信定に譲り隠居しています。しかし、天正18年(1590)に発生した小田原合戦では小田原城に籠る事になり、敗戦後は武田家家臣時代に仲が良かった上田城の城主真田昌幸を頼り隠遁生活を行いました。天正20年(1592)、隠遁先の別所温泉で真田信幸(真田昌幸の嫡男)と碁を打ち、政事などを篤く語り合った直後に急死、享年52歳。菩提は別所温泉の温泉街に境内を構える安楽寺に葬られ、墓碑が建立されています。
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