長野県・小布施町・岩松院(小林一茶縁)

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【 概 要 】−岩松院の創建は永享2年(1430)に開かれたのが始まりとされます。当初は千僧林念仏寺と号していましたが文明4年(1472)、雁田城の城主荻野備後守常倫が明室覚証禅師を召還し改めて開山し寺号を岩松院に改めています。常倫は丹波出身の豪族で、当地に移封された際、丹波栗の苗を植えた事が小布施栗の発祥とされ、背後に居城である雁田城を築いている事から岩松院は荻野家の菩提寺だったと思われます。その後、高梨氏の台頭などで一時衰退しましたが元和5年(1619)、当地に移封になった福島正則によって再考され自らの菩提寺としました。正則は寛永元年(1624)に死去、享年64歳、戒名「海福寺殿前三品相公月翁正印大居士」、遺体は境内に葬られ寺号は戒名から海福寺岩松院に改称、墓碑である五輪塔とそれを囲う霊廟が造営されました。本堂の天井に描かれた「八方睨大鳳凰図」は弘化4年(1847)葛飾北斎が88歳の時に製作したもので大きさ縦3間、横3.5間、畳21帖分、「東町祭屋台の天井画(龍図・鳳凰図)」、「上町祭屋台の天井画(男浪図・女浪図)」と共に「小布施の三大傑作」に数えられています。ただし、「八方睨大鳳凰図」には落款や裏書が無く、描いた年、北斎は江戸にいた記録も残っており図案が北斎で実際描いたのは高井鴻山という説があります。又、境内の池には産卵期、ヒキガエルが約300匹集まり所謂蛙合戦(雌を廻り雄達が争う)が行われる事から「蛙合戦の池」と呼ばれ、俳諧師の小林一茶が岩松院を訪れた際「痩せ蛙まけるな一茶これにあり」の句を残しています。この句は息子である千太郎が生後20日程で病弱だった事から、痩せ蛙=千太郎と見立て、「千太郎よ、父(一茶)が就いているから病気になんかに負けるな」という意味らしいです。
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