長野県・麻績神明宮

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【 概 要 】−麻績神明宮の創建は平安時代末期、周辺一帯が麻績御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園だったことから神領の惣社として伊勢神宮の分霊を勧請したのが始まりと伝えられています。麻績御厨は伊勢神宮の荘園の中でも最大級の規模を持っていたとされ社運も隆盛し大日如来懸仏や薬師如来懸仏、鰐口(何れも麻績村指定文化財、当時は神仏習合していたようです。)などが寄進されましたが室町時代に入るとその庇護も無くなり次第に衰微しました。代わって当地の領主となった服部清信、青柳頼長、歴代松本藩主(松本城の城主)などが庇護し社領の寄進や社殿の造営などが行われ再び隆盛しました。又、麻績郷の総社でもあり、享保16年(1731)には麻績組10ヶ村が、松本出身の何右衛門、作十郎が製作した寄棟造、極彩色豊かな神輿(檜材、全長164cm、柱長85cm、麻績村指定文化財)を寄進しています。境内には神楽殿と舞台がありますが通常兼用する場合が多く麻績神明宮のように神事と娯楽と明確に分けることによってより神格化させようとしていたのかも知れません。又、本殿左側に独立して仮殿が建てられているのも珍しく、古くから住民が御際神に大して畏敬の念を持っていたと思われます。古建築が多く本殿(貞享元年:1684年)、拝殿(天保11年:1840年)、仮殿(宝暦10年:1760年)、神楽殿(元禄11年:1698年)、舞殿(天明3年:1783年)の5棟が国指定重要文化財に指定されています。祭神:天照大神。又、麻績神明宮の境内近くに位置する麻績宿は善光寺西街道の宿場町として発展した町で、現在でも古い町並みが残されています。
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